有馬名所?亀乃尾の滝 有馬温泉②
日本でも 三古泉の一つとして名高い 有馬温泉です
温泉好きの 壁ぎわですから ここでも解説をしておきましょう
小さい字は それが好きだと言う人の為の壁ぎわ流の解説です
興味の無い人は読み飛ばしてください
温泉として「日本三古泉(湯)」になっているのは、日本書紀・風土記などでは、「有馬温泉・道後温泉・白浜温泉」。
延喜式神名帳だと、「有馬温泉・道後温泉・いわき湯本温泉」です。
まずここで 延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)は、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十のことで、当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧である。 言わば 最初にできた 神社の格付表です。
養老4年(720年)に完成したと伝わる日本書紀に比べて かなり新しいもので、神社の神の由来で 三本足のカラスに導かれた熊野本宮のように いろいろと脚色されてもいますし
道後温泉(愛媛県松山市)
有馬温泉(兵庫県神戸市北区有馬町)
磐城湯本温泉(福島県いわき市)
川渡温泉(宮城県大崎市)
鳴子温泉(宮城県大崎市)
湯元温泉(栃木県日光市)
岩井温泉(鳥取県岩美郡岩美町)
玉造温泉(島根県松江市玉湯町)
と 8か所の書かれていう中の上位3か所
まして 磐城湯本と言うのは 福島県
鎌倉幕府が開かれる以前の『とうほぐ』ですから 省くことにしましょう
そしてこの有馬温泉は
湯泉神社の縁起によれば、泉源を最初に発見したのは、神代の昔、大已貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の二柱の神であったと記されています。この二神が有馬を訪れた時、三羽の傷ついたカラスが水たまりで水浴していました、ところが数日でその傷が治っており、その水たまりが温泉であったと伝えられています。
これもカット 神の由来とか 由緒と言うのは 変化した言い伝えですから
日本書紀の「舒明記」には、舒明3(631)年9月19日から12月13日までの86日間
舒明天皇が摂津の国有馬(原文は有間)温湯宮に立ち寄り入浴を楽しんだという記述があります。
その後衰退したここを 僧 行基が 復興しました
神の導きでここまでたどり着き、如法経を書写して泉底に埋め、等身大の薬師如来像を刻み、一宇の堂を建て、そこへ尊像を納めたといわれています。
行基の徳に感じた薬師如来が温泉を復興させ、有馬温泉発展の基礎を行基に築かしめることとなったと言われています。
(1097)年、天災が有馬を襲いました。
「温泉寺縁起」によると、「堀川天皇の承徳元年、有馬に洪水があって、人家を押し流し、温泉も壊滅した」とあります。
その時復興させたのが、仁西(にんさい)という僧です
吉野にあった高原寺の住僧でありましたが、ある時紀伊の国・熊野権現に詣でた折、夢のお告げをうけました、それは「摂州有馬の山間に温泉がある。近頃、はなはだしく荒廃しているにつき、行って再興せよ」というものでありました。
その後繁栄するのですが…
享禄元(1528)年大火に見舞われ、有馬は焦土と化した
天文14(1545)年には、善福寺後方の落葉山に城を構える三好宗三政長に対し、三木城主別所豊後守が大軍をひきいて攻めた折、有馬はその余波を受け大打撃をこうむりました。
天正4(1576)年にも大火があり、有馬は立ち直る間もなく壊滅的なダメージをうけてしまいました。
それを立て直したのが 太閤秀吉だったのです
慶長2(1597)年に始まった大規模な改修工事です。
江戸時代からは 幕府の直轄地になり 現在にと続いています
こんなことを知っておくと 又見方も変わるんものですが
では壁ぎわの案内です

有馬温泉の玄関です
何かわからないモニュメントと

何故かわからないカッパが

それを見守る 太閤秀吉
この人は貢献しましたから

その前に こんな看板が
有馬名所 亀乃尾の滝

亀の尾 というぐらいですから
細い一本の水が流れているのでしょうか?

由来がありました
昔からの 水量の少ない滝で
加茂の不動尊と 眷属の白蛇 白長大明神の社が有ると

すぐ上に見えるんだけど

平坦な土地が無いせいか
この階段はきついんだよねぇ

お不動様と 滝の全景

お不動船が先か 滝が先か
亀の尾と言うぐらいだから…

でも全景といて上を見たら
上の小さな池に 湧水を 土管を通して入ってました

下だけ見てたほうが良かったのか…
温泉好きの 壁ぎわですから ここでも解説をしておきましょう
小さい字は それが好きだと言う人の為の壁ぎわ流の解説です
興味の無い人は読み飛ばしてください
温泉として「日本三古泉(湯)」になっているのは、日本書紀・風土記などでは、「有馬温泉・道後温泉・白浜温泉」。
延喜式神名帳だと、「有馬温泉・道後温泉・いわき湯本温泉」です。
まずここで 延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)は、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十のことで、当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧である。 言わば 最初にできた 神社の格付表です。
養老4年(720年)に完成したと伝わる日本書紀に比べて かなり新しいもので、神社の神の由来で 三本足のカラスに導かれた熊野本宮のように いろいろと脚色されてもいますし
道後温泉(愛媛県松山市)
有馬温泉(兵庫県神戸市北区有馬町)
磐城湯本温泉(福島県いわき市)
川渡温泉(宮城県大崎市)
鳴子温泉(宮城県大崎市)
湯元温泉(栃木県日光市)
岩井温泉(鳥取県岩美郡岩美町)
玉造温泉(島根県松江市玉湯町)
と 8か所の書かれていう中の上位3か所
まして 磐城湯本と言うのは 福島県
鎌倉幕府が開かれる以前の『とうほぐ』ですから 省くことにしましょう
そしてこの有馬温泉は
湯泉神社の縁起によれば、泉源を最初に発見したのは、神代の昔、大已貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の二柱の神であったと記されています。この二神が有馬を訪れた時、三羽の傷ついたカラスが水たまりで水浴していました、ところが数日でその傷が治っており、その水たまりが温泉であったと伝えられています。
これもカット 神の由来とか 由緒と言うのは 変化した言い伝えですから
日本書紀の「舒明記」には、舒明3(631)年9月19日から12月13日までの86日間
舒明天皇が摂津の国有馬(原文は有間)温湯宮に立ち寄り入浴を楽しんだという記述があります。
その後衰退したここを 僧 行基が 復興しました
神の導きでここまでたどり着き、如法経を書写して泉底に埋め、等身大の薬師如来像を刻み、一宇の堂を建て、そこへ尊像を納めたといわれています。
行基の徳に感じた薬師如来が温泉を復興させ、有馬温泉発展の基礎を行基に築かしめることとなったと言われています。
(1097)年、天災が有馬を襲いました。
「温泉寺縁起」によると、「堀川天皇の承徳元年、有馬に洪水があって、人家を押し流し、温泉も壊滅した」とあります。
その時復興させたのが、仁西(にんさい)という僧です
吉野にあった高原寺の住僧でありましたが、ある時紀伊の国・熊野権現に詣でた折、夢のお告げをうけました、それは「摂州有馬の山間に温泉がある。近頃、はなはだしく荒廃しているにつき、行って再興せよ」というものでありました。
その後繁栄するのですが…
享禄元(1528)年大火に見舞われ、有馬は焦土と化した
天文14(1545)年には、善福寺後方の落葉山に城を構える三好宗三政長に対し、三木城主別所豊後守が大軍をひきいて攻めた折、有馬はその余波を受け大打撃をこうむりました。
天正4(1576)年にも大火があり、有馬は立ち直る間もなく壊滅的なダメージをうけてしまいました。
それを立て直したのが 太閤秀吉だったのです
慶長2(1597)年に始まった大規模な改修工事です。
江戸時代からは 幕府の直轄地になり 現在にと続いています
こんなことを知っておくと 又見方も変わるんものですが
では壁ぎわの案内です

有馬温泉の玄関です
何かわからないモニュメントと

何故かわからないカッパが

それを見守る 太閤秀吉
この人は貢献しましたから

その前に こんな看板が
有馬名所 亀乃尾の滝

亀の尾 というぐらいですから
細い一本の水が流れているのでしょうか?

由来がありました
昔からの 水量の少ない滝で
加茂の不動尊と 眷属の白蛇 白長大明神の社が有ると

すぐ上に見えるんだけど

平坦な土地が無いせいか
この階段はきついんだよねぇ

お不動様と 滝の全景

お不動船が先か 滝が先か
亀の尾と言うぐらいだから…

でも全景といて上を見たら
上の小さな池に 湧水を 土管を通して入ってました

下だけ見てたほうが良かったのか…
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